Googleの根本的なミッションとは?

 AppleMicrosoftと異なり、少なくとも開発者からはGoogleはあまり敵視されていません。それはなぜなのか? 開発者のような一定以上の知識を有している人間にとっては納得せざるをえないレベルの課題を提示し、着実に答えを積み重ねているというのが大きいのかもしれません。

課題と解決

 いくつものGoogleのプレゼンを見ていると、一つのパターンがあることに気がつきます。それは「こういう課題があった。だから、我々はこうしたorこうしたい」と述べることです。
 事実、Googleで「Google 課題」で検索すると2番目に出てくるのがGoogle Developer Day 2008の基調講演の記事だったりするくらいです。これは他の会社ならば批判的なトーンの記事で埋め尽くされるのですが。

 そのくらい浸透しているということは、これはGoogle内部で共有されている開発のテーマを決定するための一種の不文律のようなものではないかと考えられます。
 そして推論を積み重ねるならば、この不文律はGoogleの根本的なミッションから導き出されたものかもしれません。

課題はどこから来たのか?

 今月の16日に開かれたHTML5とか勉強会に参加してきました。この中で行われたGoogleIOのHTML5関連セッションの報告にあったのは、現在のネットが抱える課題とその解でした。

 ユーザーが大量の情報を処理するには従来の静的なHTMLだけではあまりにも力不足なのでできることを大きく広げないといけないが、できることを広げるならばそれを十分に活用するには大量の開発者がいる。それにはまず標準化によって敷居を下げ継続性を保障し、開発者が開発したもので食べていけるようにして、かつ知ってもらうチャンスを広げる必要もある。
 だから、GoogleHTML5を推進し、Chrome Storeを作り、C++で製作してコンパイルしたコードをほぼそのままブラウザベースで移植できるNative Clientを作った。

 それは非常に説得力のあるものでしたが、ここで疑問に思うのはその課題はどこから来たのか? ということです。
 個人的には、Googleの根本的なミッションから来るのではないかと考えています。

Googleの根本的なミッション

 Googleの根本的なミッションは、創業当時から一貫して「増大し続ける膨大な情報の中から望むものを早く確実に届ける」ことなのだろうと思います。
 なぜならば増大し続ける大量の情報の中から望むものを早く確実に届けるにはどうしたらいいか? と考えるとGoogleのプロダクト群には一貫した説明がつけられるからです。

 先にも述べたように、望む情報を迅速に手に入れるにはインターフェースの問題があります。また、情報にアクセスできる機会は可能な限り広いことが望ましいですし、安全性や高速性も必要です。さらに言えば、届けたい人と欲しい人をきちんと結びつけることも重要でしょう。そして何よりもそれはいかに巨大だろうと一つの企業で抱えきれないものなので、社外の開発者にも広く参加してもらう必要があります。
 それらの答えとして、例えばAndroidならばアクセス機会とインターフェース、AdSenceやGoogleBaseならば発信したい人と望む人のマッチング、広範で、その気になればサーバレスでも使えるAPI群やオープンソースなプロダクトは開発者の参加を広く集めるため、という風に考えることができます。

技術信仰集団としてのGoogle

 実は今まで、ミッションという言葉を意図的に使ってきています。それはなぜかといいますと、よく知られているようにミッションとは任務や使命から転じて伝道という意味もあるからです。

 Google関連の色々なイベントに参加していて感じるのは、一種の宗教的な情熱です。おそらくその根本には技術が社会を良くできるという信念、日本人的な感覚ではほぼ信仰に近いものがあるのでしょう。
 そしてGoogleが「技術が社会を良くするにはどうしたらいいのか?」という課題の回答として選んだのが増大し続ける膨大な情報の中から望むものを早く確実に届けることなのでしょう。
 また、Googleの行動は技術が社会を良くできるという教義を伝道するという意味合いもあるのではないでしょうか?

 Googleを単なる営利企業とし、行動を利益を最大化するためのものと考えて読み解こうとするのは少し違うのではないかと思います。また、この宗教的な情熱こそがGoogleの一番危ないところではないかなと思います。
 善良で宗教的ともいえる情熱をもち、優秀な人材を抱えた集団ほど暴走したら怖いものはありませんから。